優れた技術者を得て、渋草焼は「飛騨九谷」「飛騨赤絵」と呼ばれ、郡代の庇護を受けて発展してゆきました。 画工のうち、曽我徳丸は特に名工であり、明治5年には日本で東京博覧会に招聘されるほどの腕前でした。 徳丸はそのまま東京に残り、その地位を築いてゆきます。明治6年のウイーン万博への出展品の製作にも携わっています。 渋草焼は柳造の死後、幕末の混乱、画工の散逸などから次第に衰退します。格調の高いものも作れなくなり、すり鉢や瓶など雑器の製造も余儀なくされてゆきます。 |
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◎飛騨のやきもの年表◎ |
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