目次
第一章
 村が消えていく

■第二章
 飛騨民俗館の誕生 
■第三章
 生活の文化を救え 
■第四章
 集落博物館を作れ 
■第五章
 飛騨の里の誕生
 日本が昭和の高度成長期を迎える以前、地方の農山村は貧しい環境の中にあった。しかしそんな暮らしの中から、人々は実用的でかつ美しい建物や道具を生みだしてきた。それらは知恵と工夫に満ちており、物のない時代の庶民が厳しい自然を相手にいかに生きてきたのかをしのぶことができる。
 合掌造りなど飛騨の古い民家が持つ構造のすばらしさや美しさ。暮らしから生まれた民具に宿る実用の美。かつての農山村が育んできた生活の文化は、未来へ伝えていきたい大切な宝だ。
 しかし現在この文化は人々の生活の場からほとんど姿を消し、保存の努力なしでは私たちの目に触れることもかなわない運命にある。「飛騨民俗村」はこうした民俗文化を未来へ残すという大切な使命を持って生まれたが、ことの始まりはダムに沈むはずの一軒の合掌造りからだった。

 昭和20年(1945年)太平洋戦争が終わり、その後の平和な時代は日本人の暮らしを物質的に豊かにしていった。テレビ、冷蔵庫などの電化製品に囲まれ、庶民でも自家用車に乗ることが可能になった。そしてテレビが映し出す欧米のライフスタイル、特にアメリカに憧れる人々が増えた。新しくて便利な物への憧れは日本人の生活や意識を変えていった。
 飛騨の農山村も例外ではなかった。古くからの道具は使われなくなり、暮らしの環境も変わってきた。しかし都会とは違う農山村の現実に、やがて多くの若者や家族が住み馴れた家を捨て都市へと移っていき、飛騨にも過疎の村が増えていった。
 農山村に生まれ伝えられてきた生活の文化は、消滅の危機を迎えていたのである。
 しかし、昔からの暮らしに誇りを持ち、使い慣れた用具に愛着を捨てきれない人々もいた。先人たちから引き継ぎ育んできた文化を何とか残したい。そう願っていた。
 やがて高度成長の波は、それに取り残されてきたはずの過疎の村に思わぬ形で影響を及ぼしてきた。電気需要の拡大による大型ダムの着工である。先祖代々生きてきた土地に、暮らし続けることさえできなくなったのである。
昔の飛騨の山でよく見られた風景。
冬はソリに材木をのせて運んだ。


 そして土地とともに消える運命となった合掌造りの消失を惜しむ声がいつしかあがっていた。
 昭和31年(1956年)大野郡白川村に大牧ダムが建設される際に、沈む地区で一番立派な家屋だった太田家から高山市に寄贈の申し入れがあった。しかし市は移築資金を捻出できず、同家は名古屋市東山植物園に引き取られた。他にも奈良のあやめ池に移築されるなど、消失の危機をのがれた民家はいくつかあったが、いずれも県外への流出であった。

 さらに大牧ダムに続き御母衣ダムが、白川村から荘川村にかけて建設されることが決まった。昭和32年(1957年)着工の運びとなり、合掌造りの立ち並ぶ村落が、また沈んでいくことになった。
 御母衣ダムに沈む荘川村岩瀬に矢篦原家(やのはらけ・国重要文化財)があった。宝暦年間当時、飛騨三長者のひとりと言われた岩瀬佐助の家だったもので、他の二人と比べて“岩瀬佐助のまねならず”と謳われたその財力を随所に見ることができる。
 この民俗資料として非常に重要な合掌造りを高山市に移築することを市に進言した男がいた。飛騨で最も古い窯元小糸焼を復興した陶工、長倉三朗である。長倉はかねてより高山の祭屋台について研究著作し、高山市立郷土館の祭・陶器分野の資料委員を勤めてきた。地域に根差した民俗文化に高い関心があったのである。
 しかし高山市は矢篦原家の移築を見送り、この合掌造りは横浜の三渓園に引き取られていった。この出来事は合掌造りがつぎつぎ飛騨から離散していくのを嘆く人々からの声が、ようやく高まるきっかけとなった。
 
大牧ダムと御母衣ダムの地図

白川村と荘川村を流れる荘川に
相次いで2つのダムが作られた。


村が消えていく ■飛騨民俗館の誕生 ■生活の文化を救え ■集落博物館を作れ ■飛騨の里の誕生